勝手な考察をする場所 -18ページ目

誕生日について

あなたの誕生日はいつですか?(10月8日の人いたら報告ヨロ)

 

きっとその日を祝うはずです。

ケーキを食べたり、プレゼントをもらったり。

 

 

さて、それは何故でしょうか?

 

 

 誕生日を迎えたということは、死に近づいたということです。

余命の減少を意味しています。

 

それなのに祝うのですか?

 

失ったものは2度と戻りません。

 

仮に戻ったとしても、それは同じものではありません。

 

それを考えたとき、

 

年をとることに後悔し

1日が過ぎることに恐怖を感じます。

僕が消滅するまでのカウントダウンが進んでいるんだなと。

 

しかし、こう考えてみたらどうでしょうか?

 

「1年間生きてこられたことに感謝する日」

 

これには逆転の発想が使用されています。

 

基準を、寿命にするのではなく誕生にすることです。

 

そうすれば誕生日を祝う意味がありますね。

 

でも実際は、祝うべきだから祝っているのではなく、祝いたいから祝っているのだと思います。

 

やはり、この世界は取り決めの上に成り立っているのでしょうか?

お茶の産地表示について

はじめに次のことを了承してください。

僕は静岡人です。努力はしますが、100%平等な判断が出来るとは限りません。正直僕は宇治茶側の判断に憤りを感じています。

テレビのニュースで見た情報しかありません。また、その情報に誤りがある場合があります。

そして、その番組は静岡系です。静岡に有利な報道が無かったとは言い切れません。

情報に誤認や誤りがあった場合報告していただければ幸いです。

 

では、本題に入ります。

 

今日の夕方あるニュースを見ました。

 

宇治茶VS静岡茶の戦いでした。

 

噛み砕いて話します。

まず、お茶の協会で「ブランド名「宇治茶」等を表示する場合100%その産地のお茶を使用する」という決まりを設けました。

「静岡茶」を名乗るためには100%静岡(産地)の茶葉を使用しなければならないわけです。

そして、静岡茶側はそれを実行しました。

勿論、宇治茶側も実行しました。

 

つまり、静岡茶は100%静岡で取れた茶葉を使用したわけです。

宇治茶側も100%使用しました。

 

しかし、重大な違いがあったわけです。

 

静岡茶側が静岡茶の産地としたのは静岡のみなのに対して

宇治茶側は京都・奈良・滋賀・三重の1都3県としたのです。

 

 

このことに静岡茶側は怒っているわけです。

 

そのことに対し宇治茶側はこう話していました。

 

歴史ある味を守るためには仕方が無い。

お茶の産地を行政区域で分けるのはおかしい。

 

まぁ、確かにそうですね。

宇治茶の名を見て、その味を求めて買うのですから、味が変わってしまってはもともこうもありませんね。

産地が行政区域で分けられるのもおかしい気がします。

 

でもそれは、「全ての産地の宇治茶が同じ味なら」の話です。

 

僕はお茶とか詳しくないですが、言いたいことがあります。

 

 

そんな広かったら味とか変わっちゃうんじゃないかと?

 

 

宇治茶本来の味が出せないんじゃないかと?

 

そしてなにより、消費者は京都産のお茶を期待しているんじゃないかと?

 

 

少なくとも僕は「宇治茶」と見たら「京都のお茶か」と思いますけど?

 

 

しかし、宇治茶側が「宇治茶の産地は京都・奈良・滋賀・三重だ」と言うのなら仕方ないですね。

その1都3県のお茶を使用していれば宇治茶100%なのですから。

 

やっぱり問題となってくるのは「味」です。

 

正直、「宇治茶」を買って「宇治茶」の味がしたらそれでいいんです。安全は前提です

それが静岡産だろうが外国産だろうが京都産だろうがいいんです。

勿論、本来はよくないですけど。

 

だってそうでしょう?

あなたは抹茶のアイスを買ったとき、その茶葉の産地を聞きますか?

聞きませんよね?お茶ファンでなければ

ようは、安全で美味しければいいんです。

産地なんてどうでもいいんです。(怒られそうですね・・・)

 

だから、意見対立はやめて味で勝負したらどうでしょうか?

 

味で勝負すれば、より美味しくより信頼がありより誠実なほうが残るはずです。

 

 

結論としては

 

静岡茶側も宇治茶側も思うとおりにやったらいいと思います。

がんばって100%使用するもよし。

そうしないのもよし。

 

ただ、やっぱり産地は正直に表示してください。

産地に限らず、消費者に必要な情報は表示してください。

 

誠実にやっていれば何の問題も無いはずですよね?

 

あとは消費者が自由に選びます。

よりいいと思うほうを選びます。

 

イメージ戦略とかあるかもしれませんが、やっぱり商品がいいほうが売れると思います。

 

 

 

それを考慮して、双方正々堂々胸を張ってがんばってほしいと思います。

 

 

 

運命について

あなたは運命を信じますか?




運命とは、「この世の全ての事象は、すでに決められている」ということで、

簡単に言えば「なるようにしかならない」ということです。

 

仮にあるとするのならば、あなたの存在も行動も決まっていたことになります。

それがいつ決まったのかはわかりませんが、ビックバンよりも先なのでしょう。

ビックバンのあと・瞬間だとすると、ビックバンという事象が例外になってしまうため。

 

僕は「あるんじゃないかな」と思っています。

僕は数学が好きだし、確立とかやりましたけど・・・。

 

では、本題に入ります。

 

まず、サイコロを想像してください。

 

あなたはそれを床に落としました。

3が出ました。

もう一度落としました。

6が出ました。

 

この結果を見る限りでは、サイコロの目に必然性(運命)はないようですね。

 

しかし、それには理由があります。

 

条件は同じでしたか?

 

条件と言うのは、サイコロの持ち方・その向き・落とす高さ・落とした場所・落とし方・等です。

これだけでも、厳密にやった場合高い確立で同じ目が出ると思います。

「条件が同じ」

それは、落下速度や跳ね方、転がり方などの「目を決める」動作が同じことを意味しています

 ゆえに、同じ目が出るはずなのです。

 

実は、これらの条件にはもう1つ重要な条件があります。

 

それは、時間軸においての同一性です。

つまり、同時刻である必要があるのです。

 

さっきの実験で3が出ました。

その実験で、手からサイコロを離した瞬間が2005年4月21日午前0時0分0秒だとします。

 この実験で同一の結果を出すためにはこの瞬間である必要があります。

 

ところが、考えてみてください。

 

それって、同じ事象ですよね?

 

2005年4月21日午前0時0分0秒にサイコロを振ったという1つの事象です。

 

同じ事象であるということは、それを何回繰り返しても同じ結果が出るということです。

 

つまり、何度2005年4月21日午前0時0分0秒にサイコロを振っても、3が出るということです。

 

何か気づきませんか?

 

「何度やっても同じ結果」

これって、「運命」ですよね?

 

あなたが今

この文を見ていることも

考えていることも

その他のどんな些細なことも

 

その瞬間においては、何度やっても同じなのです。

 

現在または過去の結果が同じということは、未来においての結果も同じだということになります。

そして、それこそが運命の存在を示唆しているのです。


 

この世界はもしかしたら、大きなデータの集まりなのかもしれません。

宇宙は有限だが端が無い?

「端の無い有限」

 

一見してもよくわかりませんね。

 

「端が無い」ということは、それが外部との境界線を持たないということです。

 

「有限」というのは、限りがあるということです。

つまり、その量が一定の量より増えることはないということです。

そしてそれは行き止まりを意味しています。

 

そして「端の無い有限」とは、行き止まりは無いが量に限りのあるものということです。

 

このようなものは存在するのでしょうか?

 

まず、1次元を考えます。

1次元は幅を持たない線の世界です。

 

幅を持たない線というのは次のようなものです。

 

幅を持たない線 

黒い部分と白い部分があります。

そして、それらは別のものです。

別のものなので、その間には境界線があります。

この境界線が幅を持たない線なのです。

確かに幅はありませんね。

幅は無いが、そこに存在している。実在ではない。

 

 

この長さが有限だとしたら勿論行き止まりに当たります。

 

 では、次の図を見てください

 

 端を持たない有限の線

 

そうです、円です。

黒い部分と白い部分を分ける境界線があります。

この線には端がありませんね。

そして、その長さは有限です。

 

「直線じゃないじゃん」

 

そうです、直線じゃありません。

2次元以上で見る限り直線ではないですね。

 

ところが、1次元の住人には直線に見えてしまうのです。

なぜなら、1次元の住人が見ること(認知)できるのは一つの方向だからです。

そしてそれは、この円に平行な方向です。

 

もしこの円の世界にいたら、障害物が無ければ自分の背中が遠くに見えるでしょう。

 

これは、1次元世界での端の無い有限の例です。

 

 

次に2次元について考えてみます。

 

結論から言いますが、それは球の表面です。

 

立体なのでここに表示することはできませんが。

 

地球を想像してください。

地球の表面はどこまで行っても終わりはありません。

つまり、境界を持たないということです。

 

「え?上とか下とか行けるじゃん?」

 

それは、ここが2次元世界でなく3次元世界だからです。

仮に、2次元世界なら上下という方向は存在しません。(認知できない)

 

よって、球の表面は2次元世界での端の無い有限というわけです。

 

 

1次元・2次元と考えてきましたが、何か気づきませんか?

 

物事には法則がある場合があります。

何かを考えるときその法則を考えることは非常に重要です。

 

僕が見出した法則は

 

「n次元世界においての端の無い有限を実現するには、n+1次元以上の世界が必要である」

 

です。

 

 

 もう一度上に戻って見て下さい。

 

1次元世界の端の無い有限は円。

2次元世界の端の無い有限は球。

 

 円は2次元世界以上に存在し、球は3次元世界以上に存在できますね。

 

そして、もう1つあります。

 

地球の話をしましたが、地球は完璧な球ではないですね。

ところが、それでも2次元世界では端の無い有限といえるのです。

多少のでこぼこが許されるのならそれが大きくなっても許されるはずです。交差してはならない

 

つまり、

 

「n次元世界の端の無い有限は、n+1(その世界では認知できない)の方向に曲がったものである」

 

というわけです。

 

それを考慮した時、いよいよ3次元世界の話を始めることが出来ます。

 

3次元世界の端の無い有限を実現するためには4次元世界以上である必要があるわけです。

それは3次元には無く4次元に存在する方向に曲がっています。

そして、その方向は僕達には認知できません。

 

確かにそうですね。

 

円→球→?

 

球の次に何が来るのか?

 

どの道、認知するのは厳しいかもしれません。

 

そこで、逆に円の前を考えてみます。

 

球→円

 

これを見ているとあることに気づきます。

 

「ん?円って球の断面だな」と

 

つまり、

 

球→円→円の断面

 

ということです。

 

そして、円の断面は線です。

 

つまり、0次元の端の無い有限は線ということになります。

このまま進むと、-1次元では点になりますが、-2次元で困ってしまいますね・・・。マイナスの方向に広がるのでしょうか?

 

線→円→球→?

 

う~ん?

 

もし4次元の住人がいたらこんなもの簡単なんだろうなぁ・・・。

おっと、愚痴を言ってる場合じゃありません。

 

3次元世界における端の無い有限は、

縦横高さやその合成されたどの方向に行っても終わりが無いということです。

 

それは、1次元でも2次元でもそうだったように

 

「本人は気づかず認知できない方向に曲がって進んでいる」

 

というわけです。

 

そして、それは空間の歪みを意味しています。

その歪みは+1次元世界以上からでないと認知出来ません。

 

よって、恐らく残念ながら3次元世界における端の無い有限を見出すことは出来ません。

しかし、想像することは出来ると思います。

僕にはまだまだ発想力が足りないみたいですが・・・。 

 

 

あなたの前にある鉛筆は、曲がっていませんか?

 

 

理性と本能について

世間では本能と理性は対照的なものとして扱われています。

 

本能・理性これらは相反するものなのでしょうか?

 

本能とは?

 

本能とは生まれつき備わっている先天性の能力のことです。

そしてそれはDNAによって定められています。

 

身体が疲れを感じたら眠くなります。

栄養が必要になったら空腹になります。

軽い傷ならそのうち勝手になおります。

 

これらは本能です。

何故そういえるのか?

これらは先祖から受け継いだものだからです。

これらの能力を自分で身につけた人はいますか?

恐らく、限りなく0に近いと思います。

気づいたころには出来ていたのではないでしょうか?

 

では、何故これらが受け継がれてきたのか?

 

答えはごく単純です。

それが無いよりあったほうが生存率が高いからです。

 

身体が疲れているのにもかかわらず、動き続けたらどうなりますか?

栄養が必要なのにもかかわらず、それを補給しなかったらどうなりますか?

傷が治ることが無かったら、どうなりますか?

 

結局それがあったほうが生存競争において有利だった。

だから生き残った。

それを子孫が受け継いだ。

 

これだけのことです。

 

そうやって生存競争に必要な能力がピックアップされ、受け継がれたのです。

 

つまり、本能とは「生存競争に必要な能力」ということになります。

 

そして、僕は「生きるための武器」と呼んでいます。

 

 

 

理性とは?

 

言うまでも無く物事を判断する能力です。

この文を読むには必要です。

理解するのにも必要です。

伝えるのにも必要です。

考察には最も必要です。

 

また、これらは「意識」とも同じです。

自分が意識して考えること、それが理性です。

 

でも、考えてみてください。

 

あなたは本当に考えていますか?

 

前回のように「それは単なる電気信号だ」とか言うつもりはありません。

問題は、目的が不鮮明なところです。

 

あなたが今している行動は意味のあることですか?

 

学生なら勉強していますよね?

 

なんのためですか?

 

進学のためだったり就職のためだったり・・・。

進学するのは結局就職するためです。

 

では、何故就職するのか?ここら辺から社会人の方も入ります

給料(お金)のためですね。「やりがいがあるから」とか言ってる人は、タダ働きをしてください。

 

お金はなんのために?

衣食住やその他の生きるために必要なものを買うために必要ですね。

 

衣食住やその他の生きるために必要なものはなんのため?

・・・生きるためとすでに言っていますね。

 

では、何故生きているのですか?

「死ぬのとか怖いし」

それは本能ですね。理性ではありません。

死を避けるのは先祖より伝えられた知恵です。

生き残るための武器です。

 

「周りが悲しむし」

何故悲しませてはいけないのでしょう?

「何故って、ヒトに迷惑をかけることは悪いことでしょ?」

答えになってませんね・・・。

 

こう答える人もいるかもしれません。

 

「子孫を残すため」

 

何故子孫を残すのでしょうか?

 

「・・・」

 

では、蟻(アリ)を想像てください。

 

蟻は子孫を残しています。

恐らく彼らはそんなこと意識していないでしょう。

ただ本能に従っているのだと思います。

 

ところで、ヒトは違うといえるでしょうか?

 

ヒトが理性だと思っている思考能力。

勿論それを活用していることは確かです。

 

もう一度繰り返しますが、あなたは本当に考えていますか?

 

「何故」と聞き続けたら、最後まで答えることが出来ますか?

 

恐らく出来ないと思います。

どこかで詰まってしまうはずです。

 

そして、その詰まった時点で

 

あなたは本能に支配されているのです。

 

日頃ヒトの行動において

説明できないことや当たり前のことは

生存競争と本能で説明できることが多いです。

 

自分の子供が一番かわいい

不倫をする

一夫多妻制

能力主義

欲の存在

善悪の判断

オンリーワンよりナンバーワン某歌では逆ですが・・・。

 

どうですか?

日頃あなたの抱えている問題も説明できるかもしれません。 

 

 

転ぶことや口内炎や病気や貧富の差など

どんな些細なことでも生きるためには必要なのかもしれません。

 

 

 そして理性や自我ですら、本能によって作られた武器なのかもしれません。