勝手な考察をする場所 -16ページ目

進化について

世界は何故今のような姿になったのだろう?




当たり前のように木々は茂り

当たり前のように小鳥はさえずり

当たり前のように生きることを求め

当たり前のように子孫を残す



僕の言う姿というのは、大気や海や川などの環境のことではなく生物のことです。


何故でしょうか?

何故木々は茂り

何故小鳥はさえずり

何故生きることを求め

何故子孫を残すのでしょうか?


その根底にはDNAの存在があります。

生物を動かしているのはDNAです。直接的に作用しているわけではない

なので、DNAを含めた進化について考えてみます。


まず、太古の地球を想像して下さい。


その大部分は海です。
そこに、いろいろな(1つ?)不思議な性質を持った物質がやってきました。何故来たのかはわかりません

DNAです。


DNAの中には自分のコピーを作る性質を持ったものがありました。

コピーを作ることが出来るDNAは増えました。

コピーを作れないものは消えていきました。


たまに、コピーミスをするものが現れました。

そのコピーミスにより種類が増えました。

変化したものの中には弱くなってしまったものがいました。

中には自分の周りに壁(後に細胞壁になる)を作るものが現れました。

その種類のDNAはほかのDNAに比べて長生きすることができるようになりました。


コピーミスによって劣った変化をするものもあれば、優れた変化をするものもいたのです。


さらに変化は進みました。

壁が変化したり、群を成すものも現れました。

移動をするものも現れました。


コピーの効率を上げることによって自分を増やすものもいれば
相手を滅ぼすことで自分を残しやすくするものも現れました。

さらに変化は進みます。

複雑な身体を有するほどになり

より高いコピー効率を求められるようになりました。


常に、劣ったものは消え、優れたものが残るのです。


しかし、単純に劣っているから駄目、あるいは優れているから良いというわけではありません。

その環境により適応し、よりコピーを残せるものが残るのです。


そして、その変化こそが進化なのです。


これは太古の地球に限ったことではないのではないでしょうか?


絶滅してしまった生物がいます。

未だ生き残っている生物もいます。


前者は環境に適応できず、後者は環境に適応できたからではないでしょうか?


また、僕はこう思います。


木々が茂ることをやめてしまったらどうなるでしょうか?

小鳥がさえずることをやめてしまったらどうでしょうか?
生きることを求めなくなってしまったらどうでしょうか?
子孫を残さなくなってしまったらどうでしょうか?



その種は消えますね。



何故このような姿になったのか?



その姿は、ただの結果に過ぎなかったのです。




あなたは生きることを求めていますか?

子孫を残そうとしていますか?




仮にしていないとすれば、あなたのDNAは劣っていることになります。

それはあなたの絶滅を意味しています。


科学について

科学とはなんでしょうか?



僕の場合は物理を思い浮かべます。

そのほかに、化学・生物学・地学・天文学・・・などがあります。


その中でいろいろな公式が出てきます。


F=ma

V=v+at

U=mgh

これらの公式について聞かれても答えられません


公式以外にも「これはこうなっている」というようなものはたくさんあります。

そして、それらの多くが理由を語られていません。


その理論の真偽を確かめるには実験をするしかないのです。


これは、科学の性質によるものです。


①事象を見る

②何らかの法則が有りそうだ

③条件を変えて見る

④実験に合った法則を発見


仮に結果と矛盾したらその法則は偽です。

科学は常に実験に忠実なのです。


また、法則を見つけることが科学の目的です。

そこに、何故は含まれません。


では、何故何故を問わないのか?


これは現段階の科学では、未発見の法則が多いからだと思います。

つまり、見つけることで十分なのです。


また、何故を問うことは非常に難易度が高いです。

場合によっては不可能かもしれません。

現在の科学が未発達である以上、何故を問うのは難しいでしょう。


さらに、何故を放棄したからこそ現在の科学があるのだと思います。

実験に忠実になったからこそ、今の科学の発展があるのではないでしょうか?


しかし、僕は何故を問いたい。

物事には必ず理由があるはずです。

理由の無いものはそこに存在しないはずです。



そろそろ科学も、何故を追ってみてもいいんじゃないでしょうか?



感情について

何故僕達は感情を持ってるのでしょうか?



勿論、「持ちたいから持っている」わけではありません。

むしろ、何故受け継がれてきたのか?と言ったほうが妥当ですね。

何らかの必要性があるからではないかと思うわけです。

そこで感情の必要性について考えてみたいと思います。


まず、感情とは何なのか考えてみます。


代表的なものは喜怒哀楽です。
また、好き・嫌い・怖い・美しい・気持ち悪い・・・等もそうです。。

恐らく挙げていけばキリがないでしょう。


ここで、あることに気づきます。


何故そう思ったのかがわからない。


何故喜んだのか?

何故怒ったのか?

何故哀しんだのか?

何故楽しかったのか?


冷静に判断するとおかしいと思うことはよくあります。

例えばケーキを食べたとします。

甘くて美味しいです。美味しいも感情によって判断されたものです

ここで感情は「満足」と判断するわけです。

そして、「うれしい」と出力します。

その結果、あなたはうれしい気分になるわけです。


ところが、理性を働かせて下さい。


ケーキはあなたに必要なものでしょうか?


精神的には必要かもしれません。

しかし、他にもっと有効な物があるはずです。

何か栄養のあるものとか。

しかも、ケーキを食べたら太るかもしれません。少量なら大丈夫ですが。


メリットよりデメリットのほうが多いものを食べたのに感情は喜ぶことを選択した。

そして、美味しいと思ったときには、ケーキに対して深く考えなかったはずです。

これは、感情が最低限の判断材料(視覚情報や味覚情報)を得た瞬間に判断を下したからです。

そこに、何故とか理屈とかは存在しません。
そんなことを考えていたら判断に時間がかかってしまうからです。

そして、その速さこそが感情の売りなのです。


理性はより的確な判断が出来ます。

しかしその判断に時間がかかってしまいます。

よりたくさんの情報を必要とし、それを吟味する時間も長くなります。

それでは遅すぎる場合もあるのです。
そこで、感情による判断を行う必要があるわけです。


しかし、感情を使うべき状況はごく一部だと思われます。


なのに何故感情は存在するのか?

僕はこう考えます。


理性ばかり使っていては、脳に負荷がかかり過ぎるからではないのか?


ケーキが美味しいのか、不味いのかなどいちいち冷静に判断してたら疲れるに決まってます。

ゆえに、感情に判断をゆだねるのではないでしょうか?


つまり、理性を守るために感情は存在するのです。


感情自体に価値があるのではなく、理性のオマケみたいなものなのです。


考えてみてください。


あなたは本当に疲れきって休憩しているとき、何か深く考えていますか?

とりあえず、無心に休んでいませんか?

理性を弱めていませんか?




感情も生き残るための武器だったのです。

正義について

正義とは何でしょうか?




正しい道義や人が従うべき正しい道理のことですね。


では、「正しい」とはなんでしょうか?


間違っていないことです。

「善」とも表現されます。


本当に間違っていないのか?

本当にそれは善なのか?


何か具体例が必要ですね。


では次の問いについて考えてみます。


蜘蛛の巣にかかってしまった蝶がいました。

あなたはそれを助けました。・・・・・・①

ついでに巣を壊しておきました。・・・②


これらの行動は正義ですか?


①の行動で、蝶は困っているところを助けられ、逃げ延びることが出来ました。

②の行動で、蝶は蜘蛛の巣という1つの脅威がなくなりました。


しかし、蜘蛛はどうでしょうか?

①の行動で、獲物を逃しました。

②の行動で、巣を失いました。


蝶にとっては善ですが、蜘蛛にとっては悪です。

では、何もしなければよかったのでしょうか?


何もしなかった場合


蝶は逃げることが出来ず、喰われます。

脅威である巣も健在です。


蜘蛛は獲物を得ました。

巣を破壊されることもありません。


蜘蛛にとっては善ですが、蝶にとっては悪ですね。

双方にとっての善はありえないのです。



では、もう少し具体的な話をします。


イラク戦争がありました。(今も?)

ブッシュ政権は戦争を仕掛ける理由を次のように話していました。


①大量破壊兵器をもっている

②フセイン政権のせいで民衆が苦しんでいる


この場合、

ブッシュ政権&アメリカ兵=あなた

フセイン政権&イラク兵=蜘蛛

大量破壊兵器=蜘蛛の巣

フセインの権力=蜘蛛の巣

苦しんでいる民衆=蝶

ですね。

実際は、大量破壊兵器はなかったようですが・・・。


これでは何が善で何が悪なのか・・・。


しかし、僕はこう思うわけです。



正義は視点を絞ることで成立するのではないか?これは正義だけの話ではありません



ブッシュ政権の行動は、ブッシュ政権にとって正義です。

フセイン政権の行動は、フセイン政権にとって正義です。


しかし、

ブッシュ政権の行動は、フセイン政権にとって悪です。

フセイン政権の行動は、ブッシュ政権にとって悪です。



これは、どんな正義に対してでもいえるのではないでしょうか?



正義には必ずそれを行使する対象がいます。

そして、その対象にとってそれは悪なのです。



万物が望む正義



本当の正義



こんなものはないんですね。


そう考えるとこの言葉に納得がいきます。



正義は必ず勝つ



勝った方も負けた方も両方正義なのだから当たり前ですね。


そして、もう1つ気づくことがあります。


より支持者が多いほうが正義だとされる


いくらあなたが正義を主張しても、大勢の人がそれを反対したら?

下手すると「悪」にされますね。


より多くの支持者がいてこそ、正義は効力を発揮するのです。

判断されるものである以上、それが善なのか悪なのかは関係ないのです。




あなたの正義は、本当に正義だと思いますか?


幸せについて

幸せってなんでしょうか?



正直僕にはわかりません。不幸だとは思っていないのでご心配なくw

 

それっぽいことならいくらでもあります。

 

友達と笑えること、家族がいること、選択肢があること、等。

 

普通ならこれらを「幸せ」と呼ぶのでしょうか?

 

何故それが幸せなのか?

 

確かに喜ぶべきことであると思いますが、すべてそうですよね?


 

あなたは転んだときそれをどう判断しますか?怪我はしなかったあるいは軽かった場合

 

 

大体の人が「ついてないなぁ」と思うはずです。

きっと僕もそう思うと思います。

 

しかし、考えてみてください。

 

打ち所が悪ければどうなっていたのか。

 

下手すると死んでますよね?

ところが、あなたは生還した。

これは、幸せではないのですか?

 

そうすると、こまります。

 

仮に死んだ場合でも、苦しみの量や遺体の破損度などによって、よかったと判断されてしまう場合があるからです。勿論、普通は思いませんが。

 

これらの事象には「最悪」あるいは「最高」は存在しないわけです。

 

 

では、


 

どこからが幸せで、どこからが不幸せなのか?

 

あなたはこれを言えますか?

 

 

勿論抽象的ではなくて、なるべく具体的にです。

 

僕がわからないと言ったのはこの「ライン」のことなのです。

 

僕の悪い癖に「わからないことは「存在しない」ことにする」というのがあります。

何かと、「存在しない」ことにすると説明できてしまうことが多いからです。

 

ここでも適応してみます。

つまり、「幸せと不幸せを分ける境界線など無い」とするわけです。

 

こうすると、実にシンプルになります。

 

何故なら、この世界には幸せも不幸せも存在しないことになります。

 

つまり、全ての事象の幸せ度は同じになります。

比較対照がないので定数になります。

 

しかし、問題があります。

 

それは

 

僕やあなたが「幸せだな」と判断していることです。

 

そこには何らかの理由があるはずなのです。

 

ところが、その理由がわかりません。 

 

 

もしかしたら僕は幸せに慣れてしまったのかもしれません。

 

 

あなたは違うといえますか?

 

幸せに慣れていないといえますか?

 

多分いえないと思います。

 

もしいえるのなら、次のことを考えてください。

 


あなたは本当に幸せを認知していますか?

 

 

あなたの周りには、あなたの思っているよりたくさんの幸せがあるはずです。

空腹でないこと、それなりに健康であること、生活に余裕があること、そしてなにより

 

不幸せを感じることが出来ること。

 

「へ?誤字か?」と思うかもしれません。

 

しかし、考えてみてください。

 

その事象が「幸せ」なのか「不幸せ」なのかを判断するのはあなたです。

 

僕はこう考えています。

 

幸せな人ほど、なくしてしまった幸せは多い

 

例えば給料を考えてください。

 

あなた(以下A)は月20万もらっています。

 

右隣の人(以下B)は月30万ももらっています。

 

勿論うらやましいですよね。

 

ところが、左隣の人(以下C)は月10万しかもらっていません。

そして、AやBをうらやましく思っています。

 

しかし、Cをうらやましく思う人もいるわけです。

また、Aも誰かをうらやましがっているはずです。

 

そして、うらやましがられる人よりうらやましがる人のほうが多いのです。


平社員より管理職の方が少ないですよね。


実際、裕福であるはずの人が不祥事を起こしたというニュースがよくありますね。

一時期、政治家の不祥事がよくニュースで流れていました。

僕は「そのまま無難に暮らしてればよかったのに」と思うわけです。



そういう人たちは、僕達が感じているような幸せに慣れてしまったのではないでしょうか?


つまり、普通の幸せでは足りなくなってしまったのではないでしょうか?


そう考えると、幸せになることは必ずしも幸せなことではないような気がします。


だとすると、幸せって何なんだろう?


それを得たら不幸になる。

得られなくても不幸になる。



ほどほどの幸せが一番良いのかもしれません。




あなたは過剰な幸せを求めていませんか?