勝手な考察をする場所 -17ページ目

自由について

自由とは何でしょうか?



僕は「選択肢がある」ということだと思います。

選択肢が多ければ多いほど自由なのだと思います。


ところが、それは必ずしも幸福を意味しません。

確かに、出来ることが多ければいいですね。

しかし、それが出来るがゆえに悩み苦しむのです。


例えば、感情を例にとってみます。


喜びを知るためには、悲しみを知らなければいけません。

楽しみを知るためには、苦しみを知らなければいけません。


必ず比較対照が必要になってくるわけです。


そして、必ずしも良い方ばかりを認知できるとは限りません。

逆に悪いほうばかりに気を取られているのが現状でしょう。


これは幸せと呼べるのだろうか?


そこで、方向を変えてみます。



もし人に選択肢がなかったら



苦しむことはないでしょう。

勿論幸福も認知することは出来ません。

それどころか、何も認知することは出来ません。

選択肢がないことは理性が無いことを意味しています。


何も考えず、何も感じない。

ただ機械的な生活を送る。


誰に命令されるでもなく、誰に命令するでもなく。

目的も目標もない。

ただ何もない虚しい日々が過ぎてゆく。


それってこう思えませんか?



選択肢がないということはに等しい、と。



死んだら何も出来ませんね。

つまり、選択肢がないわけです。


こそが究極の不自由


残念ながらこれを望む人もいるようですが・・・。


楽しむためにはリスクが必要です。

喜ぶためにはリスクが必要です。


しかし、リスクを払えば楽しむことも喜ぶことも出来ます。

そしてそれは、誰もが数ある選択肢から選べるものです。

自由であるからこそ選べるのです。

勿論、回りに迷惑をかけない程度のことだけですが・・・。


一度手にしてしまった理性と言う名の自由は、生きている限り2度と手放すことは出来ません。

何らかの形で理性がなくなれば話は別ですが。


だから、自由を目いっぱい利用したらいいと思います。

やりたいことを目いっぱいやったらいいと思います。


こうして僕が考察できるのも、自由だからです。

あなたがこの文章を読めるのも、自由だからです。


あなたは自由に不満を感じたことがありますか?


不自由に不満を感じたことはあっても、自由に不満を感じたことはないと思います。

それは何故か?

答えは簡単です。

自由はあなたにとって、少なくとも不利益ではないからです。



僕は蟻が幸せには見えません。

しかし、不幸にも見えないのです。


もし、僕達よりもっと自由な存在がいたら

僕達に対して同じような感情を抱くのでしょうか?





「お前達はそれでいいのか?」と。


平等について

平等である必要はあるのでしょうか?



アメリカ独立宣言やフランス人権宣言等の影響で平等が重要視されるようになりました。

社会は得意ではないので情報の誤認があるかもしれません。



アメリカ独立宣言より

すべての人間は平等につくられている。

創造主によって、生存、自由そして幸福の追求を含むある侵すべからざる権利を与えられている。



フランス人権宣言より

第1条(自由・権利の平等)

人は、自由、かつ、権利において平等なものとして生まれ、生存する。社会的差別は、共同の利益に基づくものでなければ、設けられない



日本国憲法より

第14条(法の下の平等,華族制度の否定,栄典の限界)

①すべて国民は,法の下に平等であって,人種,信条,性別,社会的身分又は門地(もんち)により,政治的,経済的又は社会的関係において,差別されない。


現在の日本もそれが実行されているということになっています。

「誰もが平等な権利を有している」ことになっています。



本当にそうなのでしょうか?



僕は少し違うと思います。

平等な権利と言うものは、生まれながらにして持っているものではないと思います。


生まれながらに才能がある人もいれば、障害を持った人もいるからです。

確かに法律上では平等だと思います。


しかし、今日ニュースでこんなことを聞きました。


障害児の親が小学校の教諭を訴えました。

しかし、証拠が不明確なので教諭は無罪になったそうです。

記者に親がこう言っていました。

「障害者は理解されていない。このままだと弱者は訴えることなんて出来ない。」


これを聞いて「世の中なんてまだまだ差別に溢れているんだな」と思いました。

仮に障害がなかったとしたらこんなことにはならなかったのではないかと思います。


そもそも平等な権利というものは、人によって作られたものだと思います。
人が平等な判断を下すから平等であって、もともとあるものではないと思うわけです。


そして僕が最も言いたいことはこれです。



重要なのは平等ではなく、合理的な差別



しかし、すでにこれは実行されています。

功績があるものにはそれなりの報酬を与えられます。

逆に役に立たないものにもそれに相当する報酬が与えられます。

場合によってはマイナスですが・・・。


しかし、上部で話したケースのような場合も少なくはありません。
少し前まで女性は不当な差別を受けていました。(今も?)
東北のほうではまだアイヌ民族に対する差別が行われているということを聞いたことがあります。


最も問題にするべきはこのような「不当な差別」であり、平等性ではありません。

むしろ、本当に平等にすることは不可能です。


まず、身体的能力が同じでなければなりません。

「あいつだけ走るのが速いのは差別だ」となるからです。

次に、思考能力が同じでなければなりません。

「あいつだけ頭がいいのは差別だ」となるからです。

さらに、周りからの印象が同じでなければなりません。

「あいつだけ良い様に思われているのは差別だ」となるからです。

そして、今までしてきた経験が同じでなければなりません。

「あいつだけいい思いをするのは差別だ」となるからです。

そして、同じ感情を抱いていなければなりません。

「あいつだけ楽しい思いをするのは差別だ」となるからです。

ちょっと大げさですね。


しかし、これでは全ての人間が全く同じになってしまいます。

同じ・身体・考え・経験・印象・何もかも・・・。


それはクローンのようなものです。

勿論性別も1つです。
何も違わない人々。

全てが決められた存在。

まるで、蟻のように。


あなたは蟻のような世の中が正しいと思いますか?


勿論蟻のような世の中が間違っているとは言いません。

むしろそのほうが幸せだったでしょう。

このことはまたの機会に話します。


万人が平等であるためには、万人が同じことをしなければなりません。

そして、その行動パターンは単純なものに絞られてしまいます。

その結果、蟻のように本能に動かされる世の中になってしまうわけです。


しかし、蟻にも差別はあります。

働く蟻がいれば、働かない蟻もいる。

女王蟻だっています。


僕達の世界も同じですね。


権力者がいて、それに従うものがいる。


大体の場合は納得しています。
それは、その権力者がその権力に相当する功績を上げているからです。
また、多くの場合自分より優れています。

そして、それは差別なのです。


能力の無いものと能力のあるもの


それらを合理的に細かく分け差別することによって、よりよい世の中が形成されると思います。


それは、差別と言うより整理と言ったほうが正しいかもしれません。


これまで人間は「不当な差別をなくすため」に平等を訴えてきました。


しかし、これからは「合理的な差別」によって不当な差別をなくすべきだと思います。


物事には必ず理由があります。


理由のないものはそこに存在しないはずです。


問題なのは、その理由が「不当」なのか「合理的」なのかです。


自分に出来ることには限界があります。

だったら、それが出来る人にやってもらえばいいわけです。

自分は自分に出来ることをやっていればいいわけです。


自分に何が出来、相手が何を出来るのか。

また、自分は何をすべきで、相手は何をすべきなのか。


これらを合理的に考慮して差別すれば、自然となるべき世の中になるはずです。


そう考えると、闇雲に平等を訴えるのは時代遅れなのではないかと思うわけです。



あなたのしている差別は、合理的ですか?不当ですか?



おまけ:

調子に乗って書いてたらなんか無駄に長くなった・・・。

今日記念すべき最初の(最後にならないことを祈る)読者が出来ました~。( ・∀・)つ〃∩へぇ~へぇ~

末永く応援のほどよろしくお願いします。

健康について

あなたは健康ですか?


多分僕は健康です。


ですがはっきりと「健康です」とはいえません。

別に何か病気を抱えているわけではありません。


何故かというと、「健康」という明確な状態はないからです。


「健康」が基準なのではなく、むしろ「不健康」が基準です。


つまり、「健康」は「不健康でない状態」のことなのです。


・頭痛でない

・腹痛でない

・骨折していない

・等等


「~でない状態」が「健康」の正体です。


しかし、いつそれらが発生しているのかなんてリアルタイムに監視しないとわかりません。


なので、「絶対に健康」とはいえないのです。

欲について

何故人は欲深いのだろう?


これは僕がいつも思う疑問です。


誰にでも嫌いな人はいます。


自分に都合の悪い人は嫌いになります。


勿論僕も例外ではありません。


そして、僕も誰かから嫌われているかもしれません。


キモイとか性格が悪いとか理由なんてそんなものです。


でも、それを考えたときふと思います。


僕はそうではないと言えるのだろうか?


容姿には、特に問題は無いと思います。あまりつっこまないように


しかし、性格は問題ないとは言い切れません。


「明らかに問題がある」とは言いませんが、自信があるわけではありません。


あなたはどうですか?


やはり、「100%問題ない」とはいえないと思います。


それなのに人にはけちをつける。


これって、おかしくないですか?


僕はおかしいと思うなぁ・・・。


自分のことは棚に上げて、相手を批判する。


そして、勝手に嫌いになる。


この場合多くが相手の気持ちを考慮せずに話が進んでいます。


勿論、暴力を振るう人や犯罪の臭いがする人などは避けるべきだと思います。


しかし、許容範囲にいる人はそう簡単に嫌いと言ってはいけないと思います。


心の中で思うことはしょうがないと思います。


しかし、それを人に話したり、あからさまに相手に言うのはちょっとどうかと思います。


本当に性格がいい人は悪口など言わないものです。


勿論心の中では思っているかもしれませんが。


日本人が本来持っている「謙虚な心」をもっと大事にしたほうがいいと思います。


何か問題があったら、まず自分が原因でないか考えてみる。


なんかムカツク人がいたら、その原因が自分ではないのか考えてみる。


こっちが先に相手に対して何か不快な思いをさせた可能性があるからです。


僕はよく発言するほうだし、誰かを傷つけている可能性は高いと思っています。


でも、それはその人を傷つけるために言うのではありません。


それは他の人も同じだと思います。


性格がムカツク人でも、むかつかせるのが目的とは限りません。


そこで僕が「悪気はない」と思えばそれで解決するわけです。


相手に悪気があろうがなかろうが関係ないわけです。


明らかに悪気がある場合もあります。


しかし、そういう人には今まで出会ったことがありません。


そう考えると、僕は身のまわりの人に恵まれてるんだなぁと思います。


こんなキレイ言は社会に出たら通じないと思います。


そんないい人がいたら即刻カモにされるでしょう。


しかし、適用できる場合もあるはずです。


そういうときにはがんばってみてはどうでしょうか?


勿論僕も「実践できているか」と聞かれたら


NOです。


少なからずむかつくことなんていくらでもあるし、腹が立つときもあります。

滅多にありませんが。


ただ腹が立つだけならまだしも、


感情的になった時

それを口にしそうになった時


僕は思います。


僕も愚かな人間の1人なんだな、と。


僕はどんなときでも冷静に理論的な行動が出来る人になりたいと思っています。


判断に僕個人の主観や感情を入れない人になりたいと思っています。


近年「キレる」というのが話題になりました。


僕は「キレる」というのはちょっとどうかと思います。


多分僕はキレたことはありません。


キレるという行為を軽蔑しているのも事実です。


「キレる」というのは「理性が飛んで感情に支配された状態」だと思っています。


人は理性や冷静さを大切にするべきだと思うわけです。


理性は本能に反抗できるタダひとつの手段です。


勿論完全に開放されることは不可能でしょう。


しかし、本能に縛られる時代は終わるのではないかと思います。


進化の流れに従うのではなく、人類が本当にすべきことをする。


そんな時代がいつか来ると思います。


そんな時代が来たら、醜い争いなどなくなっていると思います。


そのためにも


「謙虚な心」大事にしませんか?

除算と逆数について

 「1÷2/3」は何故「1×3/2」なのか説明できますか?


これを説明するためには、


 1.割るということはなにか

 2.分数とはなにか


が必要です。


1.割るということ


4÷2は2ですね。


これは、4の中に2が2個入るということです。


つまり割るということは、一体いくつ入るのかを求めていることなのです。


入る個数が整数で無い場合もあります。


2÷3などです。


この場合整数にはなりませんね。


2.分数とは


次に、分数について説明します。


上記の2÷3を分数で表すと2/3となります。実はこの時点で証明されてしまっています・・・。


そして、2/3は1/3を2つ集めたものです。


つまり、2/3=1/3×2です。


なぜかというと、次の図を見てください。

6等分の円

この円全体の大きさを2だとしてください。

黒い線はその大きさを6等分しています。

つまり、赤い部分が2/3なのです。


次に①②③に注目してください。

これらの合計は1です。

そして、それぞれは1/3です。


ほら、1/3が2個ありますね。



では、1÷2/3は?

2÷3の円

赤い部分が2/3です。


2/3は1/3の2倍です。


÷1/3よりも2倍余計に割ってしまうわけです。


つまり、1/3を2個ずつ数えているわけです。


だったら答えも半分になるはずですよね?


だってそうでしょう。

いつもの倍の速度で走ったら、半分の時間で到着するじゃないですか!!


つまり、1÷2/3は1÷1/3の半分

1÷1/3が3なので

3÷2

3/2

キタ―――(゜∀゜)―――→


A÷B/Cについても同様に考えてみます。


B/Cは1/CのB倍です。


÷B/Cは÷1/CよりB倍余計に割ってしまいます。


1/CをB個ずつ数えているのです。


なので、答えをBで割ります。


そうすると


A÷B/C=(A÷1/C)÷B

       =A×C÷B

       =A×C/B


よってB/Cで割ることは、逆数であるC/B倍することと同じであるといえますね。



おまけ:

どうでしょうか?問題は無いと思っています。これ書くのに3時間近くかかりましたOTL。

書いては消して書いては消して・・・ぁぁダルィ。結局これに落ち着きました。

と言うか、最後の数行だけでいいし・・・orz。もうほんと疲れました。

やっぱり、単純なことほど証明や説明って難しいものなんですね。

ちなみに、このネタは友人Tの発言によるものです。

彼曰く「分数を割ると何で逆数になるのか説明できる先生っていたらいいのにな」とさ。

しかし、「りんごみたいな単純な物で説明してほしい」というのは達成できなかった・・・orz。

またそのうち思いついたらUPします。

個人的には2/3が1/3×2になる説明のところが気に入ってます。


なんかもっとスマートな証明や説明があったら報告ヨロ。