勝手な考察をする場所 -6ページ目

続・考え中

考え中



3.法は何故「人を殺すな」と命じているのか?


 解釈が二つできるので両方考えてみます。


 ①何のために命じているか

  これは社会にとって「人を殺す」が不利益であるからだと思います。

  法律のよってその不利益を払拭するのが狙いであるといえると思います。

  法律による罰によって「人殺し」が不利益になるとすれば、おのずと数も減ると思うからです。


 ②どうして命じているといえるか

  正確には命じてはいないと思います。

  ただその行いに対して一定の罰を科すだけだと思います。

  むしろ罰を受けろと命じているように思います。


4.法が「人を殺すな」と命じていなければ人を殺していいのか?


 最後の「いい」がどういう意味なのかによって答えは変わると思います。

 

 ①道徳的にいいのか

  道徳的に「人殺し」は許されないことなのでNO。

  特に理由もなくそういうことになっていると思います。


 ②問題がないのか

  法律以外に「人殺し」に対して不利益を発生させるものがないとすればYES。

  もしあるとすれば、それとの兼ね合いによって変わると思います。

  かりにこの世の中での話だとしたら、周囲の目などが不利益を発生させるものと考えられるのでNO。


5.法が「人を殺せ」と命じていれば、これに従わなければならないのか?


 「ならない」がどういう意味なのかによります。


 ①法的によくない

  従わない=法律に逆らうですからYES。


 ②問題があるのか

  これもそのほかの利益不利益との兼ね合いになると思います。

  「人を殺す」によって発生する利益不利益、「人を殺さない」によって発生する利益不利益とです。



結局全体的に利益不利益という曖昧な回答しかないですね・・・。

しかし、それは間違いではないと思います。

そもそも自分の行動は主観によって決まるのですから、判断基準も主観であるといえます。

その判断基準こそが利益不利益であるといえます。

心の痛みから法の処罰にいたるまで。

その行動に対して、総合的に見て利益と思うか、不利益と思うか、判断基準なんてそれしかないと思います。

考え中

大学行ったら忙しくなりそうなんで、今のうちに考えたいことを考えとこうかな、と。


ある書物に書いてあることなんですけどね。(見る人が見れば「こいつもかw」ってなる

なんとなく興味を引いたんで、引っ張ってきました。


法学部のお偉いさんが書いたものらしく、法律が絡んでいます。

法律については、正直わからないのであしからず。


「人を殺すな」という命題についてです。

重いテーマですけど。


1.法は本当に「人を殺すな」と命じているか?

2.法はいかなる場合も「人を殺すな」と命じているか?

3.法は何故「人を殺すな」と命じているのか?

4.法が「人を殺すな」と命じていなければ人を殺していいのか?

5.法が「人を殺せ」と命じていれば、これに従わなければならないのか?


以上の5つです。


1,2は手が出ないのでスルーの方向で。

3,4,5を哲学的観点から考察しようと考えています。

芸術について

とりあえず、大学受かりました。

繰り上げ合格というなんとも珍しい受かり方でしたけど。


そんなわけで、前々から思っていた疑問について考えたいと思います。


芸術の世界では何が評価されるのか?


ここでの美術というのは主に絵画です。

まぁ、絵心もない美術の成績が良い訳でもない僕が語っても仕方ないとは思いますけど。


美術は具象と抽象に大別できると思います。

具象は対象をありのままに描くことです。

抽象は印象を想像しそれを描くことです。


具象における精度おいては、写真が完全に上回っていると思います。

しかし、写真のような絵を見ると感動を覚えます。

つまり、具象における評価の元は技術力だと思うわけです。

現物に近ければ近いほど評価は高くなるので、技術と評価は比例関係にあるといえます。


もちろん、構図などのデザイン力も評価されるでしょう。

しかし、どのような構図がいいのか。

また、何を書けば評価を得られるのか。

黄金比などの話も聞きますが、デザイン力の評価に法則性はないようです。



次に抽象ですが、こちらは全くわかりません。

もちろん「こんな変な絵いるかよ」というわけではないですけど。

しかし、1つ思い当たることがあります。


後世の美術界に影響を与えた「絵or画家の作品 」は評価が高い


例えばピカソ。

あの絵には正直驚きます。

正直「なんじゃこりゃ」とも思います。

しかし、ピカソは普通の絵がかけなくて、あのような絵を描いていたわけではないということらしいです。

天才的なデッサン力(具象力)を持ちながら、抽象画への道を切り開いた。

そのことについては、やはり評価されるべきでしょう。



しかし、この先はどうでしょうか?

同じような抽象画を書いても評価は得られるでしょうか?



正直僕は、抽象画には絵画としての価値をあまり感じません。

抽象画が好きな人は何がどのようにすきなのか、それが非常に興味深いです。

論理的には捕らえられない何かがあるのでしょうか?


ただ1ついえることは、やっぱり芸術って難しいな・・・。

ただなんとなく

1つ思ったことがあります。

ん~、思った?思ってた?思ってる?どれか良くわからないけど。


今、あるいは過去、もしかしたら未来でも


僕を動かす原動力は


「人に認められたい、理解されたい、必要とされたい」という願望、欲求、意地、プライド


これなのではないかと。


まぁ、普通と言えば普通かもしれないですけど。


何かそう考えると



こいつまだまだガキだな



って思うわけですよ。



ニュースで国会の議論の様子を見て


「なんだこのアホっぽい人たち。」

「なんか横でごちゃごちゃうるさい人いるし。ちょっと黙ってろよ。」

「なんか暴れだしたよ。こういうのって議論じゃなくね?」


って思っても、結局自分も同じようなものかもしれません。


僕の理想が高すぎるのかもしれないし、それもプライドなのかもしれないですけど。


でも、いまさら「バカ」に戻ることはできそうにないです。


勿論「バカ」というのは「学力」ではなく、なんていうか「徳のない人」ということです。


怒ったり、怒鳴ったり、愚痴ったり、影口言ったり、キレたり・・・ようは冷静でないということです。


僕は「怒り」はあまり外に漏らさないようにしてる(つもり)ですけど。

キレたこともたぶんないです。


でも僕の周りには


いろいろと判断が早い人がいたり

特に根拠のないことを本当のことのように話す人がいたり

決心がすぐ崩れる人がいたり(これは僕もあるかも

すべきことを見誤っている人がいたり(これもあるかも・・・


勿論嫌いかどうかは別問題です。

いいところのほうがたくさんあるだろうし。


そしてなにより


そんな些細なことに反応してしまう自分がいる。


気にする、気にすることを気にする、気にすることを気にすることを気にする、・・・。


どうなればいいのかわからない。

どうすればいいのかわからない。





あ~あ、誰かの記事に影響されたんだかなんだか知らないけど

なんか「悩んでます」的な内容になっちゃったな、まぁいいか。


なんか僕って周期的にこうやって勝手に滅入るんですよね。


その周期が短くなってきているのは気のせいだろうか?

鶏と卵

「鶏と卵はどちらが先か?」


多分誰しもどこかで一度は聞いたことがあるのではないでしょうか?

この問題は


「鶏は卵から、その卵は鶏から、その鶏は卵から・・・」


というふうに無限後退してしまう、

つまり原点にたどり着けないということが言いたいのだと思います。


しかし、そんなことはありえないと思います。

どこかにおかしな点があるはずです。


「鶏」と「非鶏(鶏以外の生物)」を分ける壁はなんでしょうか?


DNAだと思います。

身体の~%のDNAの配列が~のとき鶏である、とまでは行きませんが。


「卵」と「非卵」の場合は殻があるかないかでしょう。


説明のための使用用語

「鶏」・・・・・・鶏のDNAを持つ個体(非卵)

「非鶏」・・・・鶏以外の生物

「卵」・・・・・・殻を持つ個体(普通の卵)

「非卵」・・・・卵から孵ったもの
「鶏卵」・・・・鶏になる卵

「非鶏卵」・・鶏にならない卵

表

表にするとこんな感じです。
「鶏かつ非卵」を「非卵鶏」、「非鶏かつ非卵」を「非卵非鶏」にしてもよかったんですけどね。



「鶏→鶏卵→鶏→・・・」のループを抜け出す方法を考えます。


まず第一に「鶏は鶏の産んだ鶏卵からしか生まれないのか?」という疑問があります。


つまり、「鶏卵」であれば、「鶏が産んだ」という条件は必要ないと思うわけです。


次に、「鶏卵」は「鶏」からしか生まれないのでしょうか?


そんなことはないと思います。

非鶏が「鶏のDNAをもつ卵」=「鶏卵」を生む可能性は十分にあると思います。


つまり、非鶏が「鶏卵」を生み、それが鶏に成長するわけです。


したがって、「卵」が先である、といえると思います。


「鶏卵は鶏からしか生まれない」というところがおかしいのだと思います。



上記で述べた場合、非鶏→鶏卵という変化によって「卵が先」という結論に達しました。

これは鶏卵になる際の「遺伝」によるものです。

親のDNAを受け継ぐ際に、偶然できた「鶏のDNA」を受け継いだということです。

つまり「生まれる際の変化」ということです。


では、そのほかの場合はどうでしょうか?


パターンは「非鶏→鶏」「非鶏卵→鶏」「非鶏卵→鶏卵」とあります。

これらには共通していることがあります。


「すでに生まれている」という点です。


生まれてしまったものが変化することはありえるでしょうか?


「核実験などの影響によって突然変異を起こす」、これしかないのではないでしょうか?


現代なら十分ありえますが、大昔にはなさそうです。




やはり「卵が先」ということになるのだと思います。