勝手な考察をする場所 -7ページ目

人間性について

ふと思った。


人間性って何だろう?


授業中

「生きたる辞書や生きたる法律(のようなヒト)には人間性がない」

「だからそんな風にはなりたくない!」

というような話が出ました。(これだけで何の授業かわかったらすごいな)


「生きたる辞書・生きたる法律」とは、知識だけは豊富だが、情がないヒトを指す、と思われます。


ということは、感情があることを人間性があると言うのでしょうか?


感情とはのことです。


何かを思うという事は、何かを望むということです。


しかし、こそが人間の本質なのでしょうか?


また、それはあるべきものなのでしょうか?



僕は、むしろ感情は動物性、ヒトではない部分、つまり本能だと思います。


人間と他の動物を別物とするならば、そこにある違いは生存方法だと思います。



動物は身体能力を向上させることにより生存を可能にしてきました。

人間は思考能力によって生存を可能にしてきました。


では、その思考能力に感情は必要だったのか?


必要ない、しいて言えば邪魔だったと思います。(感情を持っていて得をしたことなんてあるかな?)


情に頼らず、今できる最善の行動をしていれば、最善の結果が生まれる。


人間にはそれが十分成し遂げえると思います。


そして、何が最善か、それを考えることこそヒトである証ではないかと思います。


つまり、思考力こそ人間性ではないかと思うわけです。


本能から独立した存在、つまりロボットこそが本当の人間の姿なのではないのかと思います。

さとうきび畑の唄

今日学校の日本史の授業でさとうきび畑の唄 のビデオを見ました。


正直、衝撃を受けました。


今までこんなにも戦争を身近に感じさせられたことはありませんでした。


はっきり言って、僕には関係ない別世界の話だと思っていました。


戦争に巻き込まれることなんてないと思っているし


自らの手で敵兵を撃ち殺さなければならない状況になんて、なるはずないと思っています。


しかし、それには何の根拠もない・・・。


能天気な放言に過ぎない・・・。




戦争をしたい人が戦争をするのは勝手だと思います。


特に止めるべき理由も見当たりません。


しかし、


どのような形だとしても


戦いを望まないものを無理やり巻き込むのは


明らかに間違っていると思います。




今地球上に戦争を望む人は一体何人いるのだろう?


いるのなら、何故戦争を望むのだろう?


いないのなら、何故戦争はなくならないのだろう?


普通に出会っていれば普通に過ごせるのに、


ただ敵になっただけで


憎まなければならない。

殺さなければならない。


戦争を望む生き物は、ヒトだけなんだろうなぁ・・・。


そんな愚かな生き物は、ヒトだけなんだろうなぁ・・・。

自我について

いや~、勉強ってむずいなぁ~。

嫌いじゃないはずなんだけど、なんだかなぁ~。

まぁ、そんなことは置いといて。


先日国語の授業で先生が


「自我、哲学用語ですね」


とか言ってたんです。

そうなのかなぁ~?

まぁ、哲学用語がどういうものをさすのかわからないから

どうしようもないですけど。



さて、我々には自我があります。

そもそも自我とは何のことでしょうか?


意思?


自らの意思で行動するものには自我があると言えますね。

おそらく、「自分の意思=自我」なのだと思われます。


しかし、自分の行動は本当に自分の意思で決定されているのでしょうか?


例えば、「お腹がすく→食べる」について考えます。

この場合、自分の意思は真ん中の「→」の部分です。


お腹がすいたなぁ

何か食べよう      ←意思

もぐもぐ         ←行動


確かに自分の意思で食べているように見えます。

しかし、自分の意思が発生した原因お腹がすいたことです。

ようは、身体の異常です。


つまり、自我自体は自分の意思で発生していないという事です。


自我に自我がない


じゃあ、その自我は自我なのか?


なんかもうややこしいな・・・。



ところで、このページにいるブログペットの場合はどうでしょうか?

勿論、プログラムされた存在だということは承知しています。


自我があるのでしょうか、ないのでしょうか?


一般的には、「ない」となるでしょう。


しかし、我々とブログペットのどこに差があるのでしょうか?


我々がお腹が減ったら食べるように

ブログペットも一定の条件で一定の行動をします。


もっと言うならば、脳が完全にコンピュータ(人工)でできている人間がいたらどうでしょうか?

その人が天然の人間となんら変わらない様子で生活していたらどうでしょうか?




生物と物体を分けるときに

「自我がある」「自我がない」

というのには疑問があります。

そもそも「自分」という存在に疑問があるからです。


しかし、そこら辺の石に自我があるとは到底思えない。


ゆえに

「制御機構がある」「制御機構がない」

と分けるのが妥当だと思います。


しかしそれは

「複雑である」「複雑でない」

ということでしかない。


やはり、生物と物体はそれほど大差ない存在なのではないでしょうか?


迷路を解く(その2)

迷路を解く を読んでおくことを推奨します。

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                  



迷路から出るためには迷路を解かなければならない」―①

迷路を解くためには、迷路を解かなければならない」―②


説明のために今赤くしたところに個性を持たせます。

①の「迷路を解かなければならない」の「迷路を解く」を「迷路を解く①」

②の先頭の「迷路を解く」を「迷路を解く②」

②の後のほうを「迷路を解く③」としますが実質「迷路を解く①」と同じです。



さて、どこが問題なのかというと、まず時間の流れがごちゃ混ぜになっているところです。

わかり易く言うのなら、非動作後(動作前・動作中)と動作後がごちゃ混ぜになっているところです。


まず先に「迷路を解く①」について考えます。

これは迷路を解明するということです。

つまり、出るための準備です。

そしてそれはこれから行われるものです。

ようはまだ終わっていないということです。

そしてこれは非動作後です。


次に①の「迷路から出る」について。

これは迷路から脱出するということです。

つまり、迷路から出たを表しています。

そしてそれにはすでに行われたものです。

そしてこれは動作後です。

つまり①が表している内容は、

「迷路を出た状態になるためには、その下準備をしなければならない」

と言っているだけです。


まぁ当たり前ですね。


そして問題は②の解釈方法にあります。

「迷路から出る」「迷路を解く②」にしましたが、ここに問題があります。正確には「出る」と「解く」は違う

迷路から出たときには、すでに迷路は解かれています。

つまり、①にあった「迷路を解く①」とは別物です。

「迷路を解く①」は現在迷路を解いているため非動作後でした。

しかし、「迷路を解く②」は「迷路から出る」と同じなので、その行為が終了した時点を表しています。

つまり、「迷路を解いた」ということです。

そしてそれは動作後です。


動作後になるためには非動作後が必要です。

なので「迷路を解く②」のために「迷路を解く③」が必要なわけです。


したがって、

「迷路を解くために迷路を解くために・・・・・迷路を解かなければならない」

というループにはならないことになります。


しかし、

「「迷路を解く③」ために「迷路を解く③」ために・・・・「迷路を解く③」をしなければならない」(以後ループ2)

と考えることができます。

ところで、「迷路を解く③」のために「迷路を解く③」が必要でしょうか?


確かに「迷路を解く③」をすると「迷路を解く③」をしてしまいます。

むしろ「迷路を解く③」をしたのに「迷路を解く③」をしない場合はありません。

つまり「迷路を解く③」をすると「迷路を解く③」をしてしまいますが、必要ではないのです。

「してしまう」だけであって「必要」というわけではないのです。

しないことはありえないからといって必要なわけではありません。


つまり、ループ2の「しなければならない」は「必要」ということではなく、「してしまう」ということなのです。


これは「「迷路を解く②」のために「迷路を解く②」をしなければならない」でも同じです。

「迷路を解く②」でなくても何でもいいです。

例えば、りんごであるためにはりんごでなければならない、などですね。


よって

「最後の「迷路を解かなければならない」に達しても、迷路は解けていない」

とはならないことになります。


時間の流れというより、「必要」と「してしまう」の違いのほうが重要だったかもしれません。

迷路を解く

ふと思いついたことが。

まぁタイトルにあるんですけど、「迷路を解く」です。


迷路って多分誰でもやったことがあると思います。

きちんと縦横そろっているものや、グニョグニョでもうまじかよってものまでいろいろありますね。


まぁ迷路を解くという当たり前の行為なんですけど、ちょっと疑問が。


「迷路から出るためには、迷路を解かなければならない」―①


まぁ当たり前ですよね。

そこで①を言い換えると


「迷路を解くためには、迷路を解かなければならない」―②


つまり、迷路を解くためには、迷路を解くという別の行為が必要ということです。

ようは、迷路を解くために迷路を解くために迷路を解くために・・・・・・迷路を解かなければならない。

しかも、最後の「迷路を解かなければならない」に達しても、迷路は解けていません


じゃあいつ解けるねん!

迷路からは永遠に抜く出せないのか!


そんなことないですよね。

ということは、この論理のどこかに間違いがあるはずです。


①が違うのか、①から②への変換が違うのか、その他か。


まぁ自分的にはなんとなく答えが出ているんですけど、もう少し吟味する必要がありそうです。


最後に1つ。


「この問いを解くには、この問いを解かなければならない」