生きるために戦うことが前提にある世界 | 勝手な考察をする場所

生きるために戦うことが前提にある世界

タイトルの言葉は映画キャシャーンで出てくる言葉です。

数ヶ月前にテレビで見たのを思い出しました。


確かにその通りだなぁと思います。

生きることだけを求めたとしても、最低でもそれに必要な衣食住を確保しなければならない。


同じことですけど、僕は「苦しむことが前提にある世界」だと思います。

何をするにも肉体的精神的な苦しみはつき物で、多かれ少なかれ苦しみは付きまとっていると思います。

逆に喜びだけで満たされている瞬間はあるでしょうか?

苦しまずに喜びを得ることはできるでしょうか?


ただ駄々をこねているようにしか見えませんが、

僕自身、喜びを得ることより、苦しみを避けることのほうが重要になってしまっているような気がします。

「苦しんででも喜びを得たい」これが普通だと思っています。

しかし僕は「喜びを犠牲にしてでも苦しみを避けたい」ということです。

やっぱり駄々をこねているようにしか見えませんね。

でも最近はそういう価値観の人多いんじゃないのかなぁ?


そして、その価値観のもと「苦しむことが前提にある世界」を考えると・・・。

生きていることに矛盾を感じる、というわけです。




まぁ、そのほかに思ったことといえば、価値に関することです。

例えば、「何故生きるのか?」という問いがあります。

この問いは「生きる価値がある」という前提のもとに成り立っています。

しいて言えば、「(物事に)価値はある」という前提のもとにです。


前の記事で「迷惑をかけたくないから生きてる」的なことを書きましたが、

それは「迷惑をかけないことに価値がある」という前提があってこその話であって、

「迷惑をかけないこと」に価値がないとすれば、「何故生きるのか?」の答えにはなりません。


そして僕は「迷惑をかけないこと」にどのような価値があるのか、

あるいは「迷惑をかけること」にどのような非価値があるのか、

何故迷惑をかけたくないのか、それがよくわかりません。


ということは、結局なんとなく生きているということにほかなりません。


さらに「価値はある」という前提も疑うとどうでしょうか。

「何故」は意味(内容)を失います。

結果「何故生きるのか?」という問いも消滅します。

問いがなくなれば、答えに悩む必要もなくなります。

しかし、今度は逆に答えがないことに悩んでしまいますが。


ちなみに、僕は「価値はあるかないか?」と問われれば、「たぶんない」と答えます。

あるいは、「そもそも価値って何だ?」と言うかもしれません。


価値というものは「ある『と思う』」もの、つまり主観でしか決定できないような気がします。

お金が儲かることは利益ですが、その額にどの程度の価値を感じるかは、個人個人違うはずです。

100円で喜ぶ人がいれば、100億にも満足しない人もいる。(のかな?)

これは所得という単純な場合なんですけどね。

そして「ある」と「ある『と思う』」は別物なのではないかと思うわけです。


まぁ、後半無駄に長いしまとまってない文章ですが、

何が言いたいかというと、「僕は価値がほしかったんじゃね?」ってことです。

自分の行動や存在に価値がほしかった、

その1つの方法として他人に認められたかったのではないか?ということです。

しかし気づいてみると「価値はない」という立場を取っている。


手に入らないものを求める感情、無理だとねじ伏せようとする理性、

いつからか感情と理性が争うようになってたなぁ。